【さるとるの三木てくてくマップ】竹中半兵衛の墓
10月前半のさるとるの三木てくてくマップは、三木市平井にある竹中半兵衛の墓と三木合戦本陣跡を訪れました。
お相手くださったのは、三木市「市史編纂室」の廣井愛邦さんです。
何ゆえに竹中半兵衛の墓がこの地にあるのかということもそうなんですが、
平成25年に三木城跡と付城跡・土塁といった三木合戦にまつわる遺跡群が国指定史跡として指定を受けた背景についても教えていただきました。
三木合戦とは、天正6年(1578)3月から天正8年(1580)1月にかけて行われた三木城主別所長治と織田信長の命を受けた羽柴秀吉との間で繰り広げられた戦いをいいます。
この戦で秀吉が用いた戦法が「干し殺し」といい、長治の居城である三木城を包囲した兵糧攻めがとられました。
この「干し殺し」の策を進言したのが竹中半兵衛とも言われています。
半兵衛はこの策により、血を流さない戦をを実現しようとしたと考えられています。
ご存知のとおり病に伏していた半兵衛は、京都で療養していました。
己の命が短いことを悟っていたからでしょうか。
武士として、戦場(いくさば)で生涯を終えたい、三木で人生の幕引きをと、秀吉の反対を押しきって、三木に来たということです。
写真の墓標、正面ではなく右前方に向いているのは、この方向に三木城があり、死してなお、三木城に睨みをきかすためとか。
竹中半兵衛の墓から、もう少し行くと、三木合戦でここから秀吉が陣頭指揮を執ったとされる本陣跡があります。
三木城がよく見え、また、毛利水軍の援軍に備え瀬戸内海をも観ることが出来るこの地に本陣を構えたのだろうということです。
ところで、国指定史跡を受けた付城や土塁とはなんなのかというと、僕が理解したイメージでいうと、三木城を取り囲む上での拠点施設が「付城」で付城間(約2Km)を繋ぐ障害施設が「土塁」です。
「干し殺し」の策は、この「付城」と「土塁」による三木城包囲網という壮大なスケールによる兵糧攻めだったいえます。
取材日、半兵衛の墓と本陣跡に大阪からの観光客の姿がありました。
「三木の干し殺しは、NHK大河ドラマでも取り上げられているが、あまりに凄惨なためか、内容が薄いように思う。」と三木にお越しになられたということです。