三木城を囲む巨大包囲網
10月20日、さるとるの三木てくてくマップの取材で朝日ヶ丘へ。
驚くなかれ。住宅団地に隣接して戦国時代の遺跡があります。
え?こんなところに?という場所で、戦国時代の息吹が感じとれるところに、歴史の積み重ねの上に現在の三木市が存在していることに改めて気づかされます。
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三木合戦(1578~1580年)は、羽柴秀吉による「干し殺し」という「兵糧攻め」が最初に行われた戦(いくさ)といわれています。
これ、実は、ごっつい規模での「兵糧」ストップの作戦が執られていたんだということに今更のように気づかされました。
「兵糧攻め」と聞いたイメージは「城」に兵糧が入らないように、城の周りを囲む程度に思っていました。
意味合いはそうなんですが、そのスケールがイメージをはるかに超えていました。
外から兵糧が入ってくるのを止めるために、三木城を囲むように「付け城」が配置され、また、「付け城」と「付け城」の間は「土塁」という盛り土の「壁」が築かれ、巨大包囲網が完成されました。
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1578年から1580年の約2年間で、兵糧が入るメインルートから順に遮断して、人っ子一人入れない状態が築かれていき、いよいよ兵糧が城に届かず、城内で多数の餓死者を出したというまさに「干し殺し」が実践された戦だったというのが「三木合戦」です。
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ところで、この三木合戦ですが、羽柴秀吉VS別所長治という風に思われていますが、毛利の援軍があったこともあり、攻めあぐねた様子にしびれをきらした織田信長は、嫡男の信忠を総大将として2万の大軍を三木に送り込んできます。
その中には、丹羽長秀・滝川一益・明智光秀らの名前もあり、また、福島正則、石田光成といった若手も名を連ねた織田のオールスターが三木にやってきたとのことです。
そして、この朝日ヶ丘の付け城の築城には、前田利家が関わったというんだからほんとにびっくり。「マジですか!!」を連発してしまいました。
インタビューにお答えいただいたのは、三木市・市史編纂室の廣井愛邦さん。
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さるとるの三木てくてくマップ、この様子は、11月2日(火)10時から放送です。
聴いてくださいね~♪